コラム COLUMN

1940年幻の東京オリンピック、ライバルがもたらす奇跡 菅原悦子(スポーツライター)

  • 時代に翻弄された、オリンピックの光と影

    劇中に登場する孫基禎(ソン・ギジョン)(1912〜2002)は、韓国の国民的英雄ともいうべきマラソン選手だった。朝鮮半島がまだ日本占領下の1936年に、日本代表としてベルリン五輪に出場し、当時の世界最高記録・2時間29分19秒2で優勝。男子マラソンでは日本五輪史上唯一の金メダリストである。だが、祖国の代表として走ることを許されなかった孫は、「君が代」が流れる表彰式で涙をこぼした。「東亜日報」は、孫のユニホームの日の丸を塗りつぶした写真を紙面に掲載。記者数人が逮捕・拷問され、新聞は無期停刊処分になるという「日章旗抹消事件」も起きている。
    また、代表選考でも悶着があった。代表3枠のうち何としても日本人選手二人をエントリーさせたかった当時の陸上関係者は、国内選考レースでの1位・南昇竜、2位・孫基禎、3位・鈴木房重、4位・塩飽玉男という結果を棚上げ。塩飽もベルリンに帯同させて再選考するという苦肉の策に出たが、体調不良の鈴木が脱落。結果、孫の金メダルに次いで南も銅メダルを獲得したが、塩飽が途中棄権に終わった。
    辰雄とジュンシクは、それから4年後に開催されるはずだった“幻の東京五輪”の日本代表の座を争うが、日本政府は1938年7月15日、日中戦争の勃発を理由に東京五輪の開催を返上、代替地・ヘルシンキでは、ソ連侵攻を受けて大会自体が中止。続く第13回大会も取り止めとなり、戦後五輪が復活したのは1948年の第14回ロンドン大会からだが、敗戦国である日本とドイツは同大会への参加は認められなかった。戦争によって多くの有望なアスリートたちが実に16年もの間、五輪への夢を断たれ、涙を飲んできたのである。

  • 最強の敵、そしてもう一人の自分互いを高める永遠のライバル

    辰雄とジュンシクのように、人並みはずれた才能を備えた者同士が、“ライバル”という枠に当てはめられることは、トップアスリートの宿命ともいえる。「○年に一人の逸材」が同じ時代に二人も存在することは、まさに奇跡だからだ。されどアスリートは皆、常に自分が1番でありたいし、1番だと思っている生き物だから、特に競技人生の絶頂期などにおいて互いを認め合うことは、なかなか難しい。時には憎しみ合い、傷つけ合うこともいとわないが、「アイツにだけは負けたくない」「アイツを越えてやる」という執念は、向上心へとつながる。辰雄とジュンシクも相手の存在に奮い立たされることで、どんなに厳しい状況におかれても、自分自身を強く持ち続けることができたといえるだろう。
    昨今のスポーツ界でいえば、“日韓決戦”という点ではバンクーバー五輪フィギュアスケート、金メダルのキム・ヨナvs銀メダルの浅田真央が好例だ。二人は1990年9月生まれの同級生。幼い頃より世界女王の座を二分してきた両者の強烈なライバル意識は、五輪史上に残るハイレベルな戦いを演出した。キムは、世界歴代最高得点となる228.56点をたたき出し、浅田は、フリー演技で五輪史上初となる2度の3回転半ジャンプを成功させるという快挙が生まれた。
    マラソンの代表選考騒動という点では、バルセロナ五輪の有森裕子vs松野明美が浮かぶ。前年の世界陸上で4位に入った有森と、国内選考レースで日本新記録を出した松野は、代表3人目の座を争う形にあった。そこで松野は、異例の記者会見を開き「私を選んでください」とアピールするも落選。一方の有森はバッシングが殺到するなど大きなプレッシャーを抱えながらも見事、日本女子マラソン初のメダル・銀を獲得。有森はレース後、一連の騒動について「あれがあったから、今の私があると思う」と打ち明けた。
    なかでも、辰雄とジュンシクが紡いだ関係と最も重なって見えるのが、元プロ野球選手の清原和博と桑田真澄だ。彼らは15歳で出会い、PL学園のエースと4番として全国制覇を飾った盟友だった。ところが、清原と相思相愛と思われた巨人が大学進学を表明していた桑田を指名したドラフト会議を境に、口もきかない状態が長年続いた。しかし、ともに大きなケガに苦しみ、引退の時が近づいた現役晩年、清原は「桑田があんなに頑張っているのだから」と歯を食いしばり、桑田も「清原と出会っていなければ、もっと早くに野球を辞めていた」と語ったという。
    少年たちは、さまざまな苦難や挫折を乗り越えながら大人へと成長して、ようやくライバルの本当の意味を知る。憎むべき相手から、自分を最も励まし、強くしてくれる存在へ―。ライバルとは最強の敵であるとともに、誰よりも互いの立場を理解し合える、いわばもう一人の自分でもある。もし、志し半ばで己の命が絶える時がきたら、迷うことなく自分の夢を委ねられる世界でただ一人の存在。それが究極のライバルの姿である。辰雄とジュンシクの12,000kmは、互いがいたからこそ辿り着くことができた“必然の奇跡”だったのだと思う。全てを失ってもまだ、生きる道はある—

    (※文中敬称略)